ラタナコーシン朝仏像とは — 定義と別名
ラタナコーシン朝仏像は、タイ現王朝であるラタナコーシン朝(チャクリー王朝)のもとで、王朝成立の以降に作られた仏像を指します。王朝の名は都となった「ラタナコーシン島(クルンテープの旧都域)」に由来し、日本では「ラッタナコーシン」「バンコク王朝」とも呼ばれます。仏教徒が国民の九割を占める上座部仏教の国において、仏像は日々の礼拝の対象であると同時に、宮廷・寺院を装う工芸美術の粋として発達しました。
アユタヤ王朝末期の戦乱で多くの寺院と仏像が失われたのち、王朝再興の象徴として仏像造像は改めて隆盛します。ラタナコーシン朝仏像は、前代の造形を受け継ぎつつ、宮廷様式の華やかさを最大限に表現する意匠として整えられていきました。金泥・漆金の光沢、螺鈿(らでん)の煌めき、そして高く尖った宝冠(モンクット)や炎髪——これらの装飾こそが、ラタナコーシン朝仏像の第一印象を形づくります。
ラタナコーシン朝の歴史と由来
ラタナコーシン朝は、、初代ラーマ1世(プッタヨートファー・チュラーローク)がチャオプラヤー川の東岸、現在のバンコクに都を移して開いた王朝です。前代のアユタヤ王朝は、のビルマ軍侵攻によって壊滅的な打撃を受け、都は焼き払われ、数多の仏像が破壊・略奪されました。ラタナコーシン朝は、その荒廃からの復興と、タイ仏教国家の再建を担って興ったのです。
初代ラーマ1世は、都を定めるにあたってワット・プラケーオ(王宮寺院、通称エメラルド寺院)を築き、そこに国宝エメラルド仏(プラケーオ・モーラコット)を安置しました。以来、代々の国王が寺院造営・仏像鋳造の後援者となり、王権と仏法をひとつに結ぶ装飾仏の様式が確立されていきました。ラタナコーシン朝の仏像は、単なる祈りの対象ではなく、王朝の正統性と繁栄を象徴する荘厳な工芸であったのです。
ラタナコーシン朝の仏像は、19世紀後半以降、外交・貿易・観光を通じて欧米や日本へも将来されました。ご先代が求められた時期・場所、コレクションの由来などが分かれば、ぜひお聞かせください。共箱・写真・購入時の資料などが残っていれば、お品の格を正しくお伝えするための大切な手がかりとなります。
王朝の由来と、現代タイ王国とのつながり
ラタナコーシン朝は、現在も続くタイの王朝です。すなわち、私たちが今日目にするタイ仏像のうち、王朝期に作られた古典様式のお品は、そのまま「今のタイ王朝が生み育てた造形」でもあります。国王の号(ラーマ1世〜現在のラーマ10世)は、20世紀に整理された歴史用語ですが、代々の国王が仏像・寺院を篤く後援してきた事実は変わりません。
ラーマ3世(在位–)の時代には、寺院造営・仏像鋳造がとりわけ活発でした。ラーマ4世(モンクット王/在位–)は自らが僧籍にあった経歴を持ち、仏教改革を進めるとともに、装身仏(トロン・クルアン)の様式を制度的に整えました。ラーマ5世(チュラロンコーン王/在位–)に至って、タイは近代国家への歩みを本格化させ、仏像造像も西洋の写実主義の影響を受けはじめます。の中盤から後半にかけて作られた作例が、いま「ラタナコーシン朝仏像」として最も多く伝わっているのは、こうした背景によります。
姿と特徴 — 装飾仏(トロン・クルアン)の格式
ラタナコーシン朝仏像の第一の見どころは、その豪奢な装飾にあります。頭部に頂く高く尖った宝冠(モンクット)、耳から胸へと垂れる装飾具(クンダラ、耳璫)、肩から斜めに掛かる条帛(じょうはく)、腕に嵌める臂釧(ひせん)、指の一本一本まで丁寧に成形された装飾。これらをまとって作られた仏像は、タイ語で Phra Phuttharupa Song Khruang(装身仏=装飾を身につけた仏)と呼ばれます。
「装身仏」に託された王朝の物語
釈迦は本来、王侯の装いを離れて出家した存在です。それにもかかわらず装飾を身にまとうこの姿は、伝説にちなむと言われます。すなわち、慢心する王「ジャンブーパティ」を導くために、釈迦が神通力で自らを飾って現れ、王をたじろがせて出家に至らしめたという物語です。ラタナコーシン朝ではこの姿こそが、俗世の栄華の上位に立つ、悟りの荘厳を表す意匠として好まれ、宮廷・王家の後援のもとに広く作られました。
姿勢・寸法・量感
造形の姿勢としては、結跏趺坐(けっかふざ)で坐す像が多く、右手を膝の上で下ろす「触地印」の坐像が代表的です。立像や遊行像(歩みの姿)も作られ、また台座は三段の高い蓮華座を伴うことが少なくありません。大きさは掌に載る小像から、寺院本尊の大像までさまざまですが、量感の豊かさと、装飾の細部まで貫かれた丁寧な仕事が、優品を見分ける手がかりとなります。
面相と光背の見どころ — 高い宝冠と炎髪
ラタナコーシン朝仏像の顔立ちは、細く切れ長の目、通ったまっすぐな鼻梁、ほのかに口角の上がった慈悲の口もと——穏やかで理知的な面差しを特徴とします。頭部を飾る宝冠の上には、多くの場合、炎髪(ラスミー/プラモリー)と呼ばれる炎の形をした頂飾がそびえます。この炎髪は、仏の智慧の光を象徴し、スコータイ様式に始まる伝統でもあります。
金泥や漆金の古色(経年の枯れ)、剥落や擦れの程度、装身の細部(宝冠や臂釧)の残り具合は、時代と作者の手を見極めるうえでの大切な手がかりです。仮に傷みがあっても、当初の作行きが残っていれば価値は損なわれないことが多く、素人判断での金泥の塗り直しや、市販の金属みがき粉での清掃は、かえって価値を著しく下げてしまうことがあります。手を入れる前に、まずはそのままの状態でご相談ください。
素材と技法 — 銅像・漆金・螺鈿
ラタナコーシン朝仏像の胎(たい/本体)には、銅・青銅の鋳造像が多く用いられ、木彫像や乾漆像も作られました。銅像は蝋型(ロストワックス)による鋳造で成形されたのち、鑢(やすり)と鏨(たがね)で細部を整え、火中で錆止めをしたうえに漆下地を掛け、金箔を押し、部分に朱漆や色漆で装いを加えます。装身仏では、宝冠や条帛・臂釧の細密な装飾を鋳出し、あるいは別造して銅象嵌・銀象嵌・螺鈿で仕上げます。
文様には、蓮華・唐草・卍繋ぎ・雲文・炎文といった仏教文様と、タイ古典の意匠ラーイ・タイ——渦巻き・葉文が組み合わされます。装飾の細やかさと趣味の良さは、作られた時代や工房の格を映す鏡でもあります。見えない裏側や台座の内部にまで、丁重な仕事が施されているかどうか——これは、査定の際に古美術商が必ず確かめるところです。